フォロー中のブログ
以前の記事
最新のトラックバック
|
【↓レアンドロ・エルリッヒのプール@金沢21世紀美術館】
水とガラス(或いはアクリル?)という見えない層がある。 それを感じる場所、水面下の空間。 高校生のとき、自分でMDの選曲をして オリジナルセレクションを作っては、悦に入っていた経験がある。 ウォークマン世代の人には、経験のあることかもしれない。 今はipodという大容量のセレクト無用の箱があるし、 ネットを介して、違法(?)とはいえ、音楽を無料で手に入れる術があるから 気になるものは何でもDLという、無嗜好性の罠にはまってしまうキライも 在るのではないのかと思う。 何かを設計しようとする設計者と 設計された何かを見るものの間にはずいぶんと違った性格の 景観が存在するのではないのかと、ふと思ってしまう。 設計する側は、「作るのだ」という人だから そこで、自分の作り出したモノを自身で消費してしまっている。 設計者自身が、 ソレを喰って、マルマルと太ってしまわないか? 設計をしていて その疑問を払拭する術を、ボクは今のところ知らない。 今のところ、建物を建てた経験もないし、本当に不明。 (もちろん、実務の方は 客観的に判断しながらデザインをしている 或いは、そういったことを避ける術を持っているのだろうけど。) (いや、エロイことを言うようだけど 『彼女が本当にキモチイイHをしているか』とか、男性諸氏の謎じゃない!? 確認の言葉のムナシサよ・・・。エロくてゴミン☆) ボクのセレクションMDなんざ、誰の興味も引いていないわけです そういった意味で。 デザインされたモノに出会った人は、何もデザインされたモノに 接触していない可能性がある。 何か施設を利用したといっても、それは本当のところ、どういったことなのか 利用者自身も意味を考えるということ少ない、無意識の中に居る。 (ほとんどの場合にはそうでしょう?) この可能性も払拭できない。 この状況は、ipodやファイル共有の果ての 無嗜好性の罠のはまっている状況としては近いかもしれない (ipodとかの場合には、飼われてしまう、その利便性に。 自分が好きな音楽をメいっぱい聞くつもりなのに、 使っているうちに、何が自分の聞きたかった音楽かが分からなくなっていく。) 見る側に、「デザインされたモノのよさ」を説くなんていうのは 「俺のMD自慢」に他ならない。 見る側が、よさを発見するしかない。 何も思わなかったところに「気づく」。 この気づきを誘発させる。それが、デザインのあるべき術かもしれない。 「オブザーバー作り出す風景」へ歩み寄ることはだいぶムズイ。 今、図面を引いているのですが、タイソウ不安です。 デザイナーとオブザーバーが、同じ地平に共存する術とは・・・。
by hayashi_kentarou
| 2005-01-10 22:31
| ソノホカ
|
ライフログ
その他のジャンル
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||