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【↓発電所美術館前に置かれた、発電用のフィン。】
同じ研究室のメンツが、夏休み中 海外に行っていたのに対して、僕はこじんまりと実家に帰ったくらいだったりする。 実家に帰ったら帰ったで、 実はまた、産業遺構の活用やまちづくりを見学に行っていたりしたのです 家族で。 一つは、発電所美術館。 日本の中央、日本アルプスの雪解け水が富山湾に向かって流れている、 その支流、新川群を流れているのが黒部川。その川によってできた河岸段丘の地形と豊富な水量を活かした発電施設が この発電所美術館の以前の用途であった黒部川第二発電所。 大正14年に建設されたこの煉瓦づくりの建物は地域に電力を供給し 今のYKKや立山アルミなどの企業に代表される軽金属(アルミとか)産業の 起こりに貢献してきた訳。 地域との結びつきは深い施設だっと言えそう。 で、その建物を入善町が貰い受けて、美術館として活用している、と そういう経緯。 で、展示をどうどうと写真におさめてくる訳にはいかなかった、ものの 周辺の状況はなかなか面白かったわけです。 【↓導水管は大迫力でしたよ】 【↓平野の中に突如としてこんな段差があったりするんだなー、周辺は田んぼ】 で、父親と話していたとこじゃ、ちょっと建物の煉瓦がきれい過ぎる、と。 【↓ファサード。化学洗浄くらいした後に、欠けた部分は埋めたりしたのでは。】 僕も全く同意見で、少し殺しすぎているように思えた。 で、以前読んだ、廃墟の美学には 「廃墟は植物と近しい」と書かれていた。 また、デザインの生態学には、 「例えば木材などは完全に乾燥させ、狂いが出なくなったら使う、これが建築。 一方で、 木など成長するものを相手に調整を試みるのが造園。」 と、その手法からの線引きが書かれてあった。 また、景観の構造の著者の樋口先生は以前、 「その場所で行われていた営みが景観をつくる大切な要因だ。 その営みの中で造り出されたモノと周辺や歴史を 後からやってきた人が眺めることで、初めて景観として認識される」 と、言われていた。 (→京都大学、樋口先生の景域研究室で助手をなさっている 出村サンのこのBlogを読んでもらうと理解が深まるかも→参照) そんな眼差しで、一連の産業遺構の活用を眺めてみれば 景観は生き物であって、 人間の行為を含めた時間経過の中語るべきなのだろうと、思える。 手の加え方は出来るだけ、造園的であって欲しいと思う一方、 建築としての用途も重要であると思う。 発電所美術館の場合、立ち代わり展示物が変わる、その入れ物としての 美術館の用途が「人」を集めている。 この場合の「人」は、美術館に作品を制作にくるアーティストであり 同時にこの美術館の展示の設営を手伝いにくる地元の美大生などの住民であり その展示を見に訪れる客で その、一連のアクティビティ無くしてはこの美術館の存在や 美術館を訪れた「人」の「風景の発見」が無い。 よく、建築で「いきられた家」ということが語られるが、 その場合には家に住んでいる人がその愉しみを享受していると 同時に住まう中に工夫を常に行っている。 今、都市域レベルで、その「いきる」というということを語るときには 自分自身が地域でどのような役割を果たすのか と、いうことを考えなければならないように思う。 地域と関わるというのはナカナカ大変なことだけれども 僕もその輪に加わっていけたらと思う。 また、人々に活動のプラットフォームをどのように提示することができるのかや 人に風景の気づきを誘発することができるかなどの 一連のシステムやプロセスを提示することが 今、取り組んでいる卒業論文の最も重要な点になると思っている。 徹底して人を相手に何かをしたいと思う。
by hayashi_kentarou
| 2005-09-25 13:37
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